【中学校・最優秀賞】

今、私達にできること

沖縄尚学高等学校附属中学校2年 金城 佳奈

 去年の夏、大好きな祖母が亡くなった。四十九日の法要の最中の八月十三日、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。幸いにも住民の方に怪我はなかったが、大学の校舎は無残な姿となってしまった。
 祖母がもし元気だったら、きっとこう言ったに違いない。
「アメリカーに戦争で負けたから、しょうがないさーね。」
と。沖縄の人達は、何度この辛酸をなめてきたのだろうか。戦争は終わったけど、敗戦によってもたらされた数々の物や事は、まだまだ尾を引いていて、今後も引きずり続けるのだと、彼女は語っていた。そして、やはり「戦争は二度とあってはならない事だよ。」と、私に強く言い聞かせていた。
 毎年、六月二十三日前になると、学校から宿題が出された。戦争体験者に話を伺おうと。祖母はよく、熊本へ疎開した時の話をしてくれた。お寺に世話になったそうだが、食べ物、着る物、寝具等、あらゆるものが足りず、苦労したらしい。祖父は兵隊として、フィリピンのダバオへ出向き、戦い、苦労しながら何年かそこで暮らさなくてはならなくなったそうだ。そして、祖父の父と兄、祖母の父と兄は皆、沖縄で、沖縄戦で亡くなったということも私に話して聞かせてくれた。その人達が、どんな人物像だったかも事細かく説明してくれた。私達の記憶に留めておいてほしかったのだろう。
 幼い頃、糸満の「平和の礎」に家族皆で出かけて行き、刻まれている彼らの名前を妹と二人で競争して探した記憶がある。礎の回りを走り回る私達は呼び寄せられ、祖父母と一緒にウートートーした。本当のところ、私は戦争の話をするのも、聞くのも怖かったし、イヤだった。戦争体験者の話をあれこれ聞くという行為は、その人達にとっても本来なら話す事もつらいだろうし、悲惨な体験は封印して、忘れてしまった方が、絶対に良いに決まってると思っていたからだ。
 それが、今年、祖父母二人が他界して初めて迎える六月を前に、ふと父が私に
「もう、我が家にも語り部がいなくなっちゃったね。」
と言った時、あ、これではいけない、と思い始めた。祖母が、私達に伝えてくれた数々の証言、そして「戦争は二度とあってはならない事だよ。」という力強い言葉が私の中に響いてきたのだ。語り継いで行かねば、風化してしまう。私は、やっと、何のために様々な資料館や、記念館が存在するのか解った様な気がした。
 那覇市若狭の旭ヶ丘公園内、小桜の塔近くに、二○○四年八月二十二日、対馬丸記念館が開館した。対馬丸とは、今の私の世代だったらだれもが小学生の頃幾度となく聞かされた話だ。学童疎開の船が魚雷攻撃を受け沈められてしまった。学童七七五人を含む、一四一八人が犠牲となった。この悲劇を再び繰り返さないための「学びの場」を目指してオープンしたと聞き、私は、共感を覚えた。しかし、開館に至るまでは大変だったそうだ。記念館に展示する「もの」がなかったとのこと。わずかな遺品、遺影を集めながら、生存者、遺族の証言を記録。文字ばかりでなく、写真やイラスト、復元物を多用。「学びの場」として、小学生の目線を意識しながらの展示方法の模索が見受けられる。
 生存者の方々の証言は細部にわたっており、当時の状況がどんな様子だったのかが、痛々しい程伝わってくる。魚雷を受けた後、海に投げ出され、暴風の吹き荒れる海を筏にのって漂流し続け、何日か後に救助されたという。
 「三十三回忌を過ぎると亡くなった人は神様になるという沖縄の慣わしがある。その日を境に、船もろとも沈んで助かった自分は偶然に過ぎない、けれど生き残ったものの使命なのでこの事実を伝えなければと、語る事を始めました。」と言う糸数さん。当時教師だった彼女は、先生が行くなら私も行くという事で、生徒十三人と一緒に乗船したがひとりも助からなかったそうだ。その無念はきっとあるに違いない。上原さんは自分が体験した事を後世に伝えなければと、意を決して自伝を書きあげたとのこと。喜屋武さんの「二度とこういう事があってはいけない。」という言葉は祖母と同じだった。
 今年の慰霊の日で、沖縄は戦後六十年を迎える。戦後生まれが増えた今、戦争の記憶は確実に薄れている。世の中に戦争がなくならない限り、基地がなくならない限り、本当に平和へはたどりつかない。そのため、今を生きる私達、特に十代の若者に課せられた課題は、「沖縄」のたどってきた過去をしっかり受け止め、今を見詰め、戦争を二度と起こさない決意を一人ひとりが持ちながら未来を築いていくべしという事ではないだろうか。


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